1億2700万人のうちの誰かのために

主に書評とユーチューバーの紹介をしていますが、その他いろいろ書いています

長尾景春〜下剋上に生きた諦めない男の生き様〜

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長尾景春という人を知っているでしょうか?

 

高校日本史レベルでは名前だけ軽く登場するという人です。

 

時代的には関東が荒れていた時代、15世紀後半頃に生きた人です。

 

今回は長尾景春について書いていきます。

 

 

1.山内(やまのうち)上杉家時代

 

そもそも、室町幕府の統治体制は、関東は鎌倉府に任せるという方針でした。

 

鎌倉府には鎌倉公方がいて、足利尊氏の息子が代々継いでいました。

 

その鎌倉公方の補佐をするポジションだったのが上杉家です。

 

上杉家にも分家がたくさんありましたが、本家筋にあたるのが山内上杉家でした。

 

その山内上杉家の家宰(No.2のポジション)だったのが、長尾景春の父親です。

 

ところが、山内上杉家の当主が山内顕定(あきさだ)に代わると、長尾景春が家宰の地位を継げないという人事が行われました。

 

人間的に上杉顕定長尾景春は馬が合わなかったのでしょう。

 

こういう経緯があり、長尾景春上杉顕定を裏切り、対抗勢力である古河公方(こがくぼう)の足利成氏(しげうじ)の味方をすることになります。

 

ちなみに、鎌倉府というのは滅ぼされていて、この頃にはもうありません。

 

ただ、鎌倉府再興を掲げて、足利成氏が下総の古河を本拠地に古河公方を名乗っていたのです。

 

2.太田道灌との戦い

 

上杉家の分家に扇谷(おうぎがやつ)上杉家がありました。

 

この扇谷上杉家の家宰だったのが、かの有名な太田道灌(どうかん)です。

 

太田道灌といえば、初期の江戸城を造った人です。

 

東京に今でも道灌堀というお堀が残っています。

 

また、日暮里駅の前には、太田道灌銅像もありますよね。

 

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太田道灌長尾景春の兄貴分的なポジションで、二人は幼少期に同じ寺で学んでいたこともありました。

 

長尾景春上杉顕定を裏切る際、太田道灌と会っており、訣別しています。

 

道灌はあくまでも上杉家を支えながら関東を統一する道を選んでおり、景春の主君を裏切るという思想とは相容れなかったのでした。

 

さて、景春と道灌はその後戦っていますが、景春は連戦連敗です。

 

景春がやろうとすることは、全て道灌に見透かされ、対策されていました。

 

やがて、山内•扇谷両上杉家と古河公方側が和睦を結ぶという事態になり、景春ははしごを外された形になります。

 

そんな中、景春は一人の男と出会います。

 

3.北条早雲との出会い

 

北条早雲、小田原を拠点とする北条氏の礎を築いた男です。

 

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一般的に下剋上の先駆けとも言われる北条早雲は、先を見据えていました。

 

つまり、関東の統一です。

 

北条早雲下剋上も辞さないという姿勢でした。

 

景春は北条早雲の思想に共鳴し、共に力を合わせて関東の統一を目指すのです。

 

ここで、それまでは協力していた扇谷・山内両上杉家ですが、仲違いします。

 

ということで、また関東に波乱が巻き起こります。

 

太田道灌との出会い、北条早雲との出会い、そして長尾景春というちょっとマイナーだけれども諦めない心は後醍醐天皇並みかそれ以上の男の人生を読むなら、この小説がオススメです。

 

 

叛鬼 (講談社文庫)

叛鬼 (講談社文庫)

 

 

後醍醐天皇についてはこちら

希望の党、都民ファーストの会は建武の新政!? - 1億2700万人のうちの誰かのために

 

銀閣寺観光〜足利義政の芸術的センスを感じる旅〜

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銀閣寺といえば、京都の東山にある国宝であり世界遺産です。

 

正式名称を東山慈照寺といい、銀閣寺という通称は江戸時代に金閣寺と対比する形で用いられ始めました。

 

室町幕府の8代将軍、足利義政の時代に造られ始めました。

 

今回は、銀閣寺について書いていきます。

 

 

1.立地

 

銀閣寺は京都市内の市街地からは少し離れた自然豊かな所にあります。

 

もっとも、バスに乗ればすぐに着きますが。

 

少し離れた所にあるのは、銀閣寺を造った足利義政が、都での政治に嫌気がさしていたためです。

 

ちょうど応仁の乱といって、京都の中で争いが11年間も起きていた時期でした。

 

確かに自分の治世に11年間も争いが起きていると、嫌になるのも分かる気がします。

 

もちろん、責任は義政にあるわけですが。

 

ということで、中心部からは少し離れた、背後に山がある場所に銀閣寺は建てられたのでした。

 

2.庭園

 

銀閣寺には立派な庭園があります。

 

特徴的なのが、銀沙灘(ぎんしゃだん)と呼ばれる銀色の砂とプリン型の山です。

 

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銀色に輝く砂が波紋状に整えられています。

 

これは江戸期に整えられたもので、義政の時代にはなかったようです。

 

なぜこのような庭になっているのかは定かではないようなのですが、月の光を砂に反射させて銀閣寺を照らせるようにしているという説があります。

 

そんなオシャレなことをよく思い付きますよね。

 

3.東求堂

 

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こちらも国宝の東求堂です。

 

足利義政がここに様々な身分の人を呼び、文化的なことについて語り合ったそうです。

 

身分にこだわるのではなく、いかに文化的センスがあるかにこだわる、こういう所は先進的ですよね。

 

普段は入ることはできませんが、毎年、春と秋に特別公開されています。

 

この東求堂、内部は代表的な日本式の和室なのですが、本来掛け軸が飾られている場所には障子があるだけで、掛け軸がないのです。

 

そして、その障子の奥には庭が見えます。

 

なぜこういう作りなのか?

 

そう、障子を少し開くことで、奥の日本庭園が掛け軸型に切り取られて見えるのです。

 

すると、障子を開くだけで、四季折々の景色が掛け軸になるのです。

 

なんという大胆な発想。

 

こんなことを思いつく足利義政のセンスが素晴らしいですよね。

 

4.吉田山

 

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銀閣寺の裏の小高い丘に登って京都の市街地の方を見てみました。

 

すると、銀閣寺の敷地外にも小さい山があるのが分かります。

 

これが吉田山です。

 

都での政争に疲れ果てた義政は、もう都の方は見たくなかったようで、あえて都の外れに銀閣寺を建造したようです。

 

当時はこの吉田山のおかげで、義政は都の喧騒から離れることができたのです。

 

5.まとめ

 

今回は銀閣寺について書いてきました。

 

京都の主要な観光地であり、大人になればこの侘び寂びの素晴らしさが分かるというもの。

 

ぜひ、銀閣寺観光の参考にして下さい。

米朝首脳会談が中止に!?その理由を考えてみた

驚きのニュースが飛び込んできました。

 

6月12日に予定されていた米朝首脳会談ですが、トランプ大統領が中止を発表しました。

 

トランプ大統領ツイッターでもこの内容が発表されています。

 

最近まで融和ムードだったのに、いったいどうしたのでしょうか。

 

今回はその理由の考察を書いていきます。

 

 

1.米朝首脳会談

 

そもそも、昨年からアメリカをはじめ世界の国々が北朝鮮経済制裁を加える中で、北朝鮮は相当キツかったのでしょう。

 

北朝鮮側が強硬姿勢をとらず融和ムードになってきていました。

 

実際、アメリカ人の拉致被害者は戻ってきましたし。

 

アメリカの軍事的圧力もかなり効果がありました。

 

実際、昨年にはアメリカの空母3隻が北朝鮮近海に展開していました。

 

北朝鮮にとってはそのような情勢はすごく脅威であったため、トランプ大統領と交渉をする必要が出てきました。

 

そこで、6月12日にシンガポールで行われる予定だったのが米朝首脳会談でした。

 

2.交渉の内容

 

アメリカと北朝鮮の交渉の内容は、北朝鮮の非核化が主な争点で、他にも日本人の拉致問題の完全解決がありました。

 

北朝鮮の非核化については「完全かつ検証可能で不可逆的な」という条件がついており、通称リビア方式とも呼ばれていました。

 

要は、「さっさと核を完全に放棄しろ」ということです。

 

放棄する過程では一切援助を行わず、完璧に核放棄が行われた時点で経済制裁の取り止め及び経済援助を行うというものです。

 

このアメリカの立場は北朝鮮にとってはかなり厳しいものでした。

 

自国民を飢えさせてでも続けてきた核開発が無になってしまうのですから。

 

だからこそ、北朝鮮としては誤魔化し誤魔化しでいきたかったはずなのです。

 

ところが、トランプ大統領はそれを許さないという態度で臨んでいました。

 

3.なぜ中止に?

 

さて、交渉とはお互いにまず強気の要求をぶつけ、後に妥協点を探っていくというものです。

 

だからこそ、最近になって金正恩はアメリカに反発するような声明を発表していました。

 

要するに、アメリカが最初から自分たちに敵意を剥き出しにしてくるような姿勢で高圧的に交渉に臨むのは良くないと牽制しているわけです。

 

そして、あわよくば交渉の場で妥協点を見つけ出そうとしていたのでしょう。

 

ところが今回の米朝首脳会談中止のニュースでトランプ大統領に妥協点を探る気はサラサラないことが分かりました。

 

アメリカとしては「完全かつ検証可能で不可逆的な」非核化以外は認めないと。

 

「しょうもない駆け引きをするな」と。

 

「交渉中止で困るのはあなたたち北朝鮮でしょ?」と。

 

確かに、軍事的にも圧倒的優位に立っているアメリカは交渉を中止しても何も困らないわけで。

 

困るのは経済制裁が解除されず軍事的圧力も受け続けることになる北朝鮮ですから。

 

圧倒的に優位に立っている側は別に妥協する必要がないのです。

 

これによって、あくまでもアメリカ側は完全なる非核化しか認めないという立場だということが分かりましたので、日本としては頼もしい限りですね。

 

中途半端にアメリカと北朝鮮が仲良くなってしまうのが、日本にとっては一番危険でしたから。

 

トランプ大統領と安倍首相との信頼関係は、日本のメディアが報道しているよりももっと深いようです。

 

やはり交渉は強気でいくのが大切なようです。

 

 

交渉の極意を日本の歴史から学ぶ事例です。

勝海舟の交渉術〜武力あってこその対話〜 - 1億2700万人のうちの誰かのために

江川英龍〜幕府の側から新しい時代の礎を作った男〜

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江川英龍という人物をご存知でしょうか。

 

幕末の日本において、幕府の側から日本を近代化しようと奔走した人です。

 

彼が現在の静岡県に造った韮山(にらやま)反射炉は「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産にも登録されています。

 

今回は江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)について書いていきます。

 

 

1.誕生(1801年)〜青年期

 

江川英龍は1801年に現在の静岡県にある韮山で生まれました。

 

江川家は源氏の血を引く由緒正しき家柄で、代々の当主は太郎左衛門を名乗り、江戸時代には伊豆国韮山代官として天領(幕府領)の民政に従事していました。

 

英龍は江川家の36代目の当主です。

 

英龍は35歳で代官職を継ぐまではかなり自由に暮らしていたようで、江戸で剣を学んだり絵画や詩歌を嗜んだりしています。

 

若かりし頃にこのように悠々自適に暮らす時期が必要だと私は思っています。

 

きっと英龍も自分の興味のおもむくままに学びたいことに熱中していたのでしょう。

 

2.韮山代官時代

 

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江川英龍の屋敷がこのように残っています。)

 

さて、英龍が代官職に就いた時代は、日本近海に外国船の接近が相次いだ時代でした。

 

英龍は海防の重要性を痛感し始めます。

 

特に、太平洋に突き出ていて江戸にも近い伊豆半島という立地を考えると、この場所に江川英龍という優秀な代官がいたことは後の日本にとって大きなプラスだったのではないでしょうか。

 

こうした情勢の中で、英龍は尚歯会のメンバーと接触し、危機意識を共有します。

 

尚歯会のメンバーといえば有名な渡辺崋山高野長英がいますよね。

 

高野長英についてはこちらをご覧下さい。

高野長英〜異彩を放つ学者、行動力の神〜 - 1億2700万人のうちの誰かのために

 

さて、英龍の話に戻しますが、長崎で洋式砲術を学んだ高島秋帆(しゅうはん)の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かそうと考えました。

 

実際に長崎まで行った英龍は高島秋帆に弟子入りし近代砲術を学びます。

 

そして西洋砲術の普及に努め全国の藩士たちに教育しました。

 

松代藩佐久間象山幕臣大鳥圭介長州藩橋本左内桂小五郎らが彼の門下で学んでいます。

 

あの明治維新で活躍した桂小五郎江川英龍のもとで学んでいたというのは、興味深い繋がりですね。

 

3.ペリー来航後(1853年〜)

 

英龍の海防意識は近未来を予見したものでした。

 

1853年、ついにアメリカからペリーが4隻の蒸気船を率いてやってきます。

 

幕府からも実績を評価されていた英龍は、時の老中、阿部正弘によって勘定吟味役に登用され、品川台場(お台場)を築造しています。

 

品川台場は一部が今も残っています。

 

また、鉄鋼を得るための反射炉の建造に取り組みました。

 

これが現在の韮山反射炉です。

 

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ちなみに、この韮山反射炉は英龍が1855年に亡くなった後に息子の代に完成しています。

 

当時の反射炉がこのように残っているのは二例しかなく、もう一つは長州藩の城下町である萩(はぎ)にあります。

 

どちらも「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録されています。

 

4.まとめ

 

江川英龍という人物は、その他にもパン食の普及に努めたことからパン祖というあだ名があったり、右向け右などの軍隊用語を日本語に訳させたことなどでも有名です。

 

世界情勢を見る中で海防の重要性に気付き、また、日本が諸外国に負けないようにするために近代的な兵制度を考案するなど、後に明治維新で活躍する人物の礎を作った人物と言えるかもしれません。

 

明治維新というと薩長の側が注目されがちですが、幕府側にも江川英龍のような有能な人物がいたということです。

 

伊豆半島に立ち寄った際には是非、江川英龍という人物が生きた足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。

 

 

 



高野長英〜異彩を放つ学者、行動力の神〜

 

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高野長英をご存知でしょうか。

 

幕末の蘭学者、医者であり、壮絶な人生を送った人です。

 

今回は高野長英について書いていきます。

 

 

1.生誕〜青年期

 

高野長英は1804年に現在の岩手県の武士の家系に生まれます。

 

家には蘭学書がたくさんあったため、幼少期から自然にオランダ語に親しんでいました。

 

時は江戸時代、鎖国中です。

 

高野長英は唯一オランダと貿易をしていた長崎に留学し、オランダ商館の医者として来日していたシーボルト鳴滝塾で学びます。

 

ここで、蘭学の知識や医術を身につけていきました。

 

シーボルト記念館にあるシーボルト銅像

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長崎の鳴滝塾

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2.シーボルト事件(1828年

 

ところが、このシーボルトシーボルト事件といわれる事件を起こしています。

 

当時、幕府は日本の地図を海外に持ち出すことを禁止していました。

 

ところが、シーボルトは帰国する際にこっそり日本の地図を持ち出します。

 

これが幕府にばれ、シーボルトは国外に永久追放、再渡航禁止の処分が下されます。

 

またこれに連座してシーボルトに関わっていた人間が処罰されますが、高野長英は上手くそれを流れています。

 

3.尚歯会時代時代

 

その後の高野長英は江戸に行き、町医者として蘭学塾を開きます。

 

そして、江戸で多くの知識人と出会う中で尚歯会のメンバーとなります。

 

この尚歯会というのは知識人が集い様々なことを話し合う組織でした。

 

この時に西洋哲学を翻訳したり、飢饉に備えてどのような作物を作れば良いかなどの本を書いたりしています。

 

ちなみに、当時は蘭学の研究には制限があったため、表向きは高齢者たちの趣味の集いということで尚歯会(歯を大切にする会)という名前になっています。

 

4.モリソン号事件(1837年)

 

さて、幕末期の日本には多くの外国船が接近していました。

 

北方からはロシアが、太平洋からはイギリスがやって来たりと、諸外国の脅威に晒されて続けています。

 

ところが、この時の幕府の権力者は50人以上の子どもがいたことで有名な11代将軍の徳川家斉

 

外国船の接近に対してたいした対策も立てぬまま、安易に異国船打払令(1825年)を定めてしまいます。

 

近づいてくる外国船に容赦なく砲撃するというこの異国船打払令、いろいろと問題がありそうですよね。

 

ということで、1837年にモリソン号事件が起きます。

 

そもそもモリソン号とはアメリカの商船であり、日本人の漂流民を届けにきてくれた船でした。

 

ところが、あろうことかそのモリソン号に砲撃し追い払ってしまいます。

 

この対応を批判したのが尚歯会のメンバーであった高野長英渡辺崋山でした。

 

高野長英は『戊戌夢物語』という本を書き、モリソン号事件を批判しています。

 

当然、高野長英は処罰され、今でいう終身刑となり江戸小伝馬町の牢屋に入れられます。

 

5.牢屋での生活

 

さて、牢屋に入れられた高野長英ですが、ただでは転びません。

 

自身の医術の知識を活かして、なんと牢屋の罪人たちの病気を治し、罪人たちのリーダー的存在にまでなります。

 

そんな中、牢屋が火事で燃えてしまいます。

 

そしてなんと高野長英は脱獄、そのまま逃亡生活に入ります。

 

さてこの火事ですが、一説には高野長英が牢屋に出入りしていた人間を買収して放火させたとも言われています。

 

6.逃亡生活

 

こうして脱獄に成功した高野長英ですが、人相がバレているため手配書が出回ります。

 

そこで高野長英は考えました。

 

「人相を変えてしまえば良いんだ」

 

硝酸で顔を焼き人相を変えます。

 

そんな頃、宇和島藩伊達宗城高野長英の知識を聞きつけ、かくまってあげたりもしています。

 

伊達宗城といえば幕末における名君として有名な人物。

 

罪人であろうと高野長英を能力を認め教えを請うという姿勢が素晴らしいですね。

 

宇和島にある高野長英の隠れていた家

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いろんな場所で逃亡生活を送っていましたが、やがて江戸で名前を変えて医者として活動をし始めます。

 

まるで追手をおちょくるかのような行動、相当肝が座っていますよね。

 

7.最期

 

現在の青山に高野長英が最後に隠れ住んでいた家の跡があります。

 

表参道のオシャレな通りの一角にひっそりと碑があるだけですが。

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1850年、ここで隠れ住んでいた所を見つかり、ボコボコに殴られて取り押さえられ、連れて行かれる途中で息絶えてしまいました。

 

学者の人生としてはかなり壮絶なものですよね。

 

8.まとめ

 

歴史上の人物の中でもすごく異彩を放つエピソード満載の高野長英

 

それでも最後まで諦めず自分のできることをし続けた闘志や行動力、たくましさ。

 

人生において困難なことや理不尽なことはたくさんあるでしょうが、高野長英はそれらに負けず運命に抗い続けたかっこいい人物ですよね。

 

今でも故郷の岩手県奥州市水沢の三偉人として、後藤新平(初代東京市長)、斎藤実(戦前の首相)とともに尊敬されているようです。

 

日本史の感動エピソード満載!!〜『感動する!日本史』〜 - 1億2700万人のうちの誰かのために

 

 

史実と緻密な調査を基にした小説です。

長英逃亡〈上〉 (新潮文庫)

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『街道をゆく』シリーズの『三浦半島記』を持って鎌倉を旅したい

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司馬遼太郎さんの人気シリーズに『街道をゆく』というものがあります。

 

司馬遼太郎さんが各地を旅する紀行文です。

 

司馬さんの本といえば、脱線話が面白いことで有名ですよね。

 

街道をゆく』でも旅のテーマは決まっていますが、内容は脱線することも多く、読んでいて教養が深まる感じがします。

 

1.三浦半島

 

今回の旅は、司馬さんが三浦半島を拠点に主に鎌倉時代について思いをめぐらせます。

 

鎌倉時代の始まり、つまり源頼朝の生い立ちの部分から、鎌倉時代の終わり、つまり北条氏の滅亡までを、魅力的な脱線トークを挟みながらたどることができます。

 

鎌倉時代について知りたい方にとってはすごくオススメの内容です。

 

メインテーマは鎌倉時代についてですが、戦艦三笠の話や太平洋戦争の時の話もあります。

 

学校の歴史の授業等で名前だけ知っている偉人の以外な素顔が明らかになるかもしれませんよ。

 

2.ドロドロの抗争劇、鎌倉幕府

 

鎌倉幕府が始まり源頼朝が1199年に亡くなると、そこからは血みどろの抗争が幕を開けます。

 

例えば、北条政子は夫である頼朝が作った鎌倉幕府を守るため、自身の子どもである2代目将軍、頼家の暗殺に関与しています。

 

また、父親である北条時政も晩年は女にうつつを抜かしていたため、鎌倉幕府を追放されます。

 

こういった、将軍家や北条氏内部のゴタゴタだけではなく、鎌倉幕府設立に協力した北条氏以外の武士たちも、どんどんと排斥されていきます。

 

この『三浦半島記』には、そこらへんの記述もあり、鎌倉時代の印象が少し変わりました。

 

3.鎌倉の史跡探索のおともに

 

鎌倉には今でもたくさんの史跡があります。

 

立て看板等も整備されているので、街歩きをしつつ、歴史を感じることができます。

 

街歩きの端々で『三浦半島記』の記述と読み較べていくと、教養深まる旅になること間違いなしです。

 

本として持っておくのも良いですが、電子書籍版もあり、手軽にスマホで旅行中に読むこともできますよ。

 

 

街道をゆく 42 三浦半島記 (朝日文庫)

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勝海舟の交渉術〜武力あってこその対話〜

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昨今、北朝鮮の核開発問題が話題ですよね。

 

現在、世界各国が北朝鮮に対して制裁を強めています。

 

アメリカは武力制裁も辞さない構えです。

 

日本も基本的にはアメリカに追従していますが、日本国内では「武力ではなくて対話しろ」という声もあります。

 

「武力ではなく対話」というのは非常におかしな言葉です。

 

それを言うなら、「武力あってこその対話」です。

 

今回は幕末の事例から「武力あってこその対話」ということを学んでいきましょう。

 

 

1.幕末の状況

 

江戸幕府戊辰戦争によって滅びました。

 

ただ、新政府によって武力で滅ぼされたわけではなく、対話で平和的に滅びました。

 

いわゆる江戸城無血開城です。

 

ここで勘違いしがちなのは、幕府が弱かったと思いがちなんですよね。

 

ところがそうではありません。

 

江戸幕府は新政府の倍ぐらいの数の軍艦を持っており、また、オランダに造らせた開陽丸という巨大な軍艦も持っていたのです。

 

東北には佐幕派の諸藩も控えています。

 

人材も優秀な人が揃っています。

 

つまり、もし戦っていたとしても良い勝負ができるくらいの戦力はあったのです。

 

2.武力を背景とした対話

 

さて、新政府軍との交渉担当となった勝海舟は、まず駿府にいる西郷隆盛のもとに、山岡鉄舟を派遣します。

 

ここで予備交渉が為されたのち、勝海舟と新政府の西郷隆盛が江戸で会い、江戸城無血開城が決まりました。

 

無血で革命が成し遂げられたのです。

 

ただ、この場ではおそらく武力をちらつかせた交渉が行われたことでしょう。

 

交渉というのはそういうものです。

 

「幕府側は東海道を進んでくる新政府軍を海側から撃つことができる」

 

東海道には箱根の山と相模湾に挟まれた狭い場所がありますから、ここで海側から砲撃されると新政府軍はなすすべなく壊滅です。

 

「江戸の街を自分たちで燃やすこともできる」

 

新政府側としても江戸のインフラをそのまま活用したいですし、後ろ盾となっているイギリスが江戸が燃えることを嫌いました。

 

イギリスとしては日本との貿易で儲けられればよく、商売に影響が出るようなことはしてほしくなかったのです。

 

こういったことを見越しての勝海舟の交渉、さすがです。

 

開陽丸という武力、江戸を燃やす実行部隊、これらが江戸幕府側にもまだ存在していたからこそ、江戸城総攻撃という戦争は避けることができたのです。

 

3.アメリカの棍棒外交の結果(2018年5月9日追記)

 

さて、この記事を最初に投稿してから3ヶ月が経ちました。

 

世界情勢はこの間にめまぐるしく変化し、なんと北朝鮮が歩み寄りを見せ始めました。

 

もちろん、まだ油断はできません。

 

過去にも約束を反故にしてきましたから。

 

でも、さしあたっての核の脅威はなくなったわけで、賛否ありますがアメリカの武力をチラつかせる外交の成果が出ているのではないでしょうか。